ロックダウンの記憶はなぜ歪むのか——感情調整が過去の苦しさをどう塗り替えるか
📄 Holiday or hell? Emotion regulation and memory of depressive symptoms during lockdown.
✍️ Chang, VT, Overall, NC
📅 論文公開: 2024年6月
3つのポイント
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ロックダウン2020と2021を縦断的に追跡した研究で、後の時点で抑うつ症状が強い人ほど、過去の苦しさを実際より大きく思い出す「投影バイアス」を示した。
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想起時(2021年)に感情抑制を多く使う人は過去の苦しさを過小評価し、認知的再評価を多く使う人は過大評価するという、実験室研究とは異なる逆転パターンが観察された。
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この結果は、感情調整が感情の記憶を形成する仕組みは現実の危機文脈では実験室知見と異なりうることを示唆し、研究者たちは適応的コーピングの反映である可能性を論じている。
論文プロフィール
- 著者: Chang, VT., Overall, NC. / 発表年: 2024 / 掲載誌: Emotion (Washington, D.C.)
- 対象: ニュージーランド在住の幼い子どもを持つ親 272 名
- 調査内容: 2020 年のロックダウン開始時と 17 か月後の 2021 年ロックダウン時に抑うつ症状と感情調整を測定し、過去の苦しさをどう記憶するかを分析した縦断研究
- 証拠の強さ: 前向き縦断デザインによる中程度の証拠です。2 時点のみの測定であり、感情調整と記憶バイアスの間の因果の方向は確定できません。
エディターズ・ノート
辛い体験の後、「あのときはもっとひどかった」「意外とそうでもなかった」と感じることがあります。こうした記憶の揺らぎは気まぐれではなく、感情調整の様式と結びついている可能性があります。コロナ禍のロックダウンという現実の大きな苦境を使って、記憶と感情調整の接点を縦断的に追った研究を届けます。
何がわかったか
人は苦しい出来事をどう記憶するのか。理論的には二つの方向が考えられます。苦痛が薄れて「そこまでひどくなかった」と思い直すか、苦痛が頭に焼きつき「あれは本当に地獄だった」と記憶が増幅するか。
Chang と Overall は、幼い子どもを持つ親 272 名を対象に、2020 年のロックダウン開始時点と 17 か月後の 2021 年ロックダウン時点で抑うつ症状と 感情調整 感情調整 感情の起こり方や表し方に働きかけて整えるはたらき。注意の向け直しや捉え直し(再評価)などの方略がある。 方略を測定しました。2021 年に「2020 年のことをどれくらい辛かったと思うか」を尋ね、実際の 2020 年時点の測定値と照合することで、記憶の正確さと偏りを分析しています。
分析から浮かび上がった主な知見は三つです。
投影バイアス: 2021 年時点で抑うつ症状が強い人ほど、2020 年のロックダウンを実際よりも辛かったと思い出す傾向がありました。現在の心理状態が過去の記憶に「投影」されるパターンです。
感情抑制と過小評価: 2021 年時点で感情抑制(感情の表現・体験を内側に押さえ込む方略)を多く使っていた人は、現在の状態を過去に投影しにくく、むしろ 2020 年の苦しさを実際より低く見積もる傾向がありました。
認知的再評価と過大評価: 一方、再評価(出来事の意味を捉え直す方略)を多く使っていた人は、2020 年の苦しさを実際より高く見積もっていました。
🔍 認知的再評価が苦しさを「過大評価」させた理由
実験室研究では、認知的再評価は感情体験を緩和する適応的な方略とされてきました。そのため再評価をよく使う人が過去の苦しさを「より辛かった」と思い出すというのは、直感に反する結果です。
著者らは次のように解釈を試みています。再評価は苦しい体験を正面から処理し意味を見出す作業を伴うため、その記憶が詳細に符号化され、「あのときは大変だった」という認識が保持されやすいかもしれない。一方、抑制は体験そのものを遠ざけるため、符号化自体が弱まり記憶が薄れやすい可能性があります。ただし、著者たちはこれを「予期せぬ結果」として報告しており、解釈は暫定的です。
🔍 この研究の限界と注意点
本研究の対象は幼い子どもを持つ親に限定されており、他の集団(子どもがいない成人・高齢者・臨床群など)に同じパターンが現れるかは不明です。また 2 時点のみの測定であるため、感情調整が記憶バイアスを生むのか、あるいは記憶のしやすさが感情調整の選択に影響するのか、因果の順序は判断できません。さらに感情調整と抑うつ症状の測定はいずれも自己報告に依存しており、実際の内的プロセスを直接観察したものではありません。
著者らは、抑制が記憶を低く見積もらせる結果を「必ずしも不適応ではなく、コロナ禍という継続する逆境への有用なコーピングの反映かもしれない」と論じています。この解釈には留保が必要ですが、感情調整方略の「適応性」が文脈によって変わりうるという視点は示唆的です。
理論的枠組みとの接続
本研究の背景には、Gross による 感情調整 感情調整 感情の起こり方や表し方に働きかけて整えるはたらき。注意の向け直しや捉え直し(再評価)などの方略がある。 のプロセスモデルがあります。このモデルは感情調整を「先行焦点型(状況や注意・認知に働きかける)」と「反応焦点型(生じた感情反応を調節する)」に大別します。認知的再評価は先行焦点型、表出抑制は反応焦点型の代表的方略です。
実験室環境では再評価のほうが抑制より適応的という知見が蓄積されてきましたが、本研究はその序列が記憶の文脈では逆転しうることを示唆します。現実の長期にわたる逆境では、方略の「適応性」を機能的に問い直す必要があるかもしれません。
また投影バイアスの知見は、現在の感情状態が過去の記憶を書き換えるという認知心理学的な知見と整合します。抑うつ症状が強いときは、過去も今と同じくらい辛かったという記憶が構築されやすい。記憶は出来事の中立的な記録ではなく、現在の状態によって再構成されるものだという視点です。
🔍 「投影バイアス」という概念
投影バイアス(projection bias)とは、現在の内的状態(感情・動機・欲求など)が過去や未来の状態の推定に影響する認知的偏りです。空腹時に食料品の買い物をすると余分に買いすぎる、というのが日常的な例としてよく挙げられます。感情の領域では、現在の感情が記憶の色を染めるという形で現れます。本研究はこの投影バイアスを、実際に記録された過去データと照合することで検証できる稀な縦断的セットアップを活用しました。
自己観測への手がかり
「あのときはもっと辛かった(あるいは意外と平気だった)」という感覚が、今の自分の状態を映している可能性があります。過去の苦しさを振り返るとき、記憶が現在の気分の影響を受けているかもしれないという視点を持つことは、自己理解の一つの手がかりになるかもしれません。感情の記憶が「事実の記録」ではなく「現在地からの再構成」だとしたら、今の気分が落ちているとき過去を振り返ることについて、どう考えますか。
読後感
あなたが最近「あのときは本当に辛かった(あるいはそうでもなかった)」と感じた出来事を思い浮かべたとき、今の自分の状態はその記憶にどんな影響を与えているかもしれないと思いますか?